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NGO相談員

【お知らせ】「人」明日へのストーリー「日本との“時差ゼロ”の国に出発!!」[高知県]

2023.04.07

2003年度1次隊/パラオ/小学校教諭
廣瀬 留美子(高知県)

【日本での研修前訓練を終えパラオへ】
長野県にあるJICA駒ケ根訓練所で約3か月間の派遣前訓練を終え、いざ派遣国であるパラオへ!同期7人(7人の職種は、小学校と高校数学教諭学校関係5人、柔道隊員1人とコミュニティ開発1人)、これからパラオでどういう活動をするのかを皆で話し合いながらドキドキとワクワクを胸に現地に向かった。到着後1か月は、パラオ語やパラオ文化を学んだ。パラオ人との日常会話の中で出てくる「シューカン(習慣)」「デンワ(電話)」「ダイトーリョー(大統領)」など多くの日本語に驚き、こんなに日本語が使われているパラオってどんな国なんだろう?他にどんな“日本とのつながり”が見つけられるのだろうか?など、ますますパラオという国に興味を持った。

【JICAが行うパラオでの算数教育】
パラオでは、JICAによる日本の算数教育を進めており、現地の教育関係者と学校配属のJICA海外協力隊員で算数部会を立ち上げ、算数教科書編纂、教師向けワークショップを行っていた。そのような中、私の活動は、配属先であるガラロン小学校にて、算数、体育、音楽、日本語などの教科を担当すること。特に算数教育に力を入れ、高学年の子どもたちや先生たちと協力しながら教材作りをし、「数の概念」の重要性を日々の授業の中で徹底して伝えた。私の2年間は、基礎学力の向上に努めた。

【基礎学力向上に的を絞った活動をした理由とは】
赴任当初、私は小学校7~8年生の算数を担当していた(※パラオの学校教育:小学校1年~8年、高校9年~12年)。そこでは、日本のように「授業中は静かにする」「テストではカンニングをしない」「ノートや鉛筆などの持ち物を大切にする」という日本では当たり前の常識は通用せず、授業中はいつも賑やかで、テスト中でもおしゃべりが絶えなかった。日本との違いに戸惑いを感じ、「テスト中は絶対カンニングをしないこと」を何度も伝えた。その最中、子どもたちが手や足を使いながら四則計算をしていたのはとても印象的だった。また、このままでは手足の20を超えた計算が難しくなると思い基礎学力向上に努めた。子どもたちに将来の夢などを書く生活調査アンケートも行った。調査結果から、私の関心は子どもたちの将来の夢に向いた。7~8年生(計30名/男子14人、女子16人)のアンケート結果では、7割の子供たちの夢が「アメリカの兵隊」になることだったのだ。

【パラオの歴史的背景を知る】
子どもたちの将来の夢を知り、子どもたちが教育を受け成長していく中でどういう将来を描いているのか、収入を得るための方法をどのように考えているのかが分かり「パラオの歴史を知りたい、知らなければ」と思うようになった。
パラオは、世界が大航海時代に入り太平洋を航海中に立ち寄ったスペインによって発見され、次いでドイツ、日本、アメリカの統治下におかれた。そして、1997年に独立した。日本統治時代(1914年~1945年)には、日本の移民政策で多くの日本人や沖縄人、台湾人、韓国人など5~6万人がパラオに住んでいた。実は、私の母(沖縄県出身)もパラオで生まれ、終戦までの4年間をそこで過ごした。当時の写真を見ると、道路がきれいに整備され並木道ができており、神社やたくさんの商店、日本料亭、タクシー会社など、本当に日本人がここで生活をしていたと実感できた。

【パラオのお母さんとの出会い】
私にはパラオ生まれの実母ともう1人、パラオに今も住むママさんがいる。
私の任地であるガラロン州は、コロール(旧首都)の隣島の最北端に位置し、当時は道路が整備されておらず車で5~6時間かかった。日中はとても暑いからか外で人を見かけることは、まず無い。当初、とてもさみしい気分になったのを覚えている。村人はどこにいるのかと、夕方5時頃から人探しを目的に散歩に出かけた。そして、歩いている途中に出会ったのが、のちに私のホームステイ先のママさんになる女性だった。毎日この時間に畑仕事をしている人は彼女だけだった。彼女に覚えたてのパラオ語で声をかけたら、「どこからいらしたの?」というきれいな日本語がかえってきた。彼女は、76歳。日本統治時代に7年間の日本語教育を受け、今でも日本の小説や雑誌、テレビ番組を楽しんでいる。私が日本人であると伝えると、流暢な日本語で当時の思い出話をたくさん話してくれた。「るみこさんのにほんごは、ちょっとおかしいわね」と言われたことを覚えている。
これを機に、ホームステイ(※1)をさせてもらうことになり、パラオでの日々の疑問や伝統文化について多くのことをママさんから聞くことができた。私を本当の娘のように受け入れてくれたことにとても感謝している。
(※1)パラオの青年海外協力隊員は、原則ホームステイをすることになっており、パラオ一般家庭にお世話になる。

【自国の伝統・文化を守る人々】
パラオには、第一子が生まれた時に行う儀式や新築祝い、葬式などのことを「シューカン(習慣)」といい、毎週末パラオのどこかで行われている。そこでは、国内外から集まった多くの親戚と共に、家族みんなで生バンド演奏の歌や踊りを一日中楽しんでいる。シューカンには小さい子どもから年配の方々まで、多世代が一同に集まるため、パラオの親族がどのように機能しているのかを見ることができた。高齢者を敬う気持ちや女子が率先してお手伝いをしている姿などは、どこか日本に通ずるところがあると感じた。普段は、どんな大きな問題が起きても、「ダイジョーブ」「ショーガナーイ」「モンダイナーイ」とマイペースなパラオ人だが、シューカンではテキパキと進めている姿をみることができた。パラオ人の大切にしている伝統や文化がここにあるんだという実感を得た。

【JICA海外協力隊の活動を終えて】
私が活動初期に行った子どもたちへのアンケート調査から将来の夢が「兵隊」であることを知り、パラオの歴史・文化を学んだ中で、この“シューカン”がとても気になった。様々な外国の文化を受け入れてきているパラオであるが、人口約2万人という小さな国を守っていくため、そして自身のアイデンティティを維持してくために行っているものがこの“シューカン”ではないかと思う。私がここで活動した2年間は、小学校での子どもたちや先生達、私を見守ってくれた地域の人々、そしてパラオのママさんから、パラオのありとあらゆることを授けてもらった貴重な時間だった。
帰国後は、大学院に進学し、兼ねてから疑問に思っていたパラオの子供どもの職業意識から“パラオ社会”を研究した。修了後は、国際交流や国際協力の分野で南米出身の日系研修員やフィリピン研修員の受け入れ、県民への国際理解促進のため異文化理解講座の実施等を担当した。現在は、高知県外国人生活相談センターの相談員として外国人や外国人と関わる方々からの相談を受けている。生活に関する様々な相談があるなかで、「外国人も日本人も住みよい社会とはなんだろう」といつも自分に問いかけている。そういう時に思い浮かべるのは、伝統と近代のはざまで伝統文化を大切にしながら力強く行きるパラオの人々の姿。そろそろ、またあの空気を味わいに行きたい。

【詳細】
独立行政法人国際協力機構ホームページ>JICA四国>日本との“時差ゼロ”の国に出発!!
https://www.jica.go.jp/shikoku/story/152.html


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えひめグローバルネットワークは、令和5年度外務省NGO相談員事業を受託しています。
http://www.egn.or.jp/ngo/ngo.html

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