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NGO相談員

【お知らせ】人の温かみ~栗田智子さんのボランティア派遣活動~[愛媛県]

2020.03.16

栗田智子(愛媛)
昭和58年度4次隊/バングラデシュ/人形製作 
平成22年度1次隊/ネパール/手工芸 
平成28年度1次隊/ミャンマー/服飾

【バングラデシュ(人形製作)】
 「海外を見てみたい」という単純な気持ちから青年海外協力隊に応募した。それが、通算3回ものボランティア派遣につながるとは思ってもいなかった。
 1982年12月から3か月の駒ケ根での訓練が始まった。派遣前の体力強化に美しい長野県の冬山を見ながら、毎朝隊を組んでするマラソンや語学学習が楽しくてならなかった。夢に向かって、突然自分の人生が回転し始めた気がした。
 そして、当時世界最貧国と言われていたバングラデシュに派遣された。まだ携帯などは無く、任地には病院もなかった。私は生きて日本に帰れないかもしれないと覚悟した。若かったので、まったく怖いとも思わなかった。
 イスラム教の国バングラデシュでは偶像崇拝をしない。人形作りは宗教に反するので、生徒が村八分になりかねない。人形を作ることについて夫が了解しているか確認を必ず取った。自分の誕生日を知らない人が殆どで、身長など見た目で私が年齢を推定するしかなかった。職業訓練所に通う交通費が支給されるので、それが目的で参加する女性もいた。ある日人形作りに来ない女性の家に行ってみたら、薄暗い家の中でタバコを巻く内職をしていた。私は彼女がその日の食に困っている事を実感した。
 人形のデザインのために踊りやサリーの着方を習ったり、村の農作業の様子をデッサンしたり、少数民族の織る布を仕入れたり、文化を学ぶ事で温かい交流ができた。2年間、配属先が提供したべンガル人の家に下宿し、シングルベッドがやっと一つ入るくらいの部屋をもらって病気一つせず任期を終えることができた。
 帰国1年後、イギリスの団体VSO(Voluntary Service Overseas)のボランティアとしてバングラデシュで活動をしていた夫ピーターと結婚し、イギリスに28年間住んだ。2男1女に恵まれ、子育てをしながらロンドンの大学でDesign & Technology の教員免許を取り、公立高校でイギリス人校長や同僚に支えられて教鞭をとった。

【ネパール(手工芸)】
 2回目は、2010年にシニア海外ボランティアとしてネパールに派遣が決まった。政府の手工芸協会(FHAN)傘下のデザインセンター(HANDECEN)に配属となり、布製品・紙製品・銀製品など、フェアトレード貿易もあるような会社から小規模な工場まで、広範囲の手工芸産業のデザイン技術指導やワークショップをした。業務が多岐にわたる為、ストレスが多かったが、現地の音楽に触れる事は私と夫と娘にとってかけがえのない時間だった。週末にJICAの調整員が自宅を開放してサーランギというネパールの弦楽器とマーダル(打楽器)の先生を招いてくださり、毎週末ボランティアが集まって練習をした。  
 一番心に残った活動は、ダーマンという農村の女性に農閑期の副収入として機織りのトレーニングをした事だった。アローという自然繊維の植物の栽培地の整備も整い、その繊維を糸に紡いだり、染色をしたり、布を織ったりして製品化するトレーニングを必要としていたため、ネパール人の機織り指導者と共同でトレーニングにあたった。
 トレーニングには若くして子どものいる女性がたくさん参加した。トレーニングに来る前に家事や畑仕事・薪割・水汲み・子どもの世話を済ませ、またトレーニングが終わったらすぐに子どもの世話や、畑仕事に出る。ミシンを使ったりデザインをしたり、染めや機織りをすることは彼女たちにとっては家事から解放される楽しいひと時だった。トレーニングに行かせてもらえるような理解のある家庭から来ている女性でさえ、ネパール語の読み書きができない人が14人中4人くらいいた。村では家事手伝いの為に学校を辞めさせられる女の子は多い。女性の社会的地位を上げる為には教育を受けることが最強の方法だと私は信じる。しかし、古い習慣を断ち切ることは困難な環境だ。私がトレーニングをした生徒の中には貧困層が多いが皆温情が深く、訓練最終日には料理をしてくれ、新聞紙のお皿を使ってみんなで食べた。
 ネパールの風習である幼児婚や年齢差の大きい結婚は、娘が若くして未亡人になる可能性が高いため、再婚を認めないヒンドゥー教徒の場合、娘は一生つらい思いをする。私がネパールを去ってからも継続的な支援を得られるように配慮し、彼女たちの自立を図った。
 ダーマンにはJICAから4機の機織り機が寄贈され、カトマンズの大手企業からの注文も受けられるようになり、女性たちの生計への道が開かれた。 
 帰国後、愛媛県の私立高校の英語教師になり、授業で発展途上国の子ども達の状況をビデオで見せたり、JICAを通してセネガルの学校にサッカーボールを送ったりした。生徒達から「学校に行ける自分がいかに幸せかよくわかった。」という言葉が返ってきた。

【ミャンマー(服飾)】
 派遣3回目は仏教国ミャンマーで、2016年7月に赴任がかなった。
 過去2回の派遣ではベンガル語もネパール語も支障なく使えたため、緊張感を持っていなかった私はミャンマー語でつまづいてしまった。
 講師への縫製の指導だった為、見て理解してもらえれば実技に支障はなかったが、十分な話し合いはできなかった。私が配属された社会福祉省の家政職業訓練校では、校長を始め教師は誰一人英語が話せなかった。長い間軍事政権下で英語での教育や自由な発言が止められていたことがミャンマーの人々に大きく影響している事を感じた。
 生徒の就職先に日本企業を紹介したり、毎朝ヤンゴン大学でミャンマー語を2時間学んでからボランティア活動をするように頑張ってみたり、カウンターパートと毎日昼食を共にしたりしたが、家政職業訓練校の講師の方々が積極的にトレーニングに来る事はなかった。

 JICA事務所を通して首都ネピードの社会福祉省の許可を得て、同じ社会福祉省傘下の施設である児童養護施設と軽犯罪に関わった女子の施設に3か月ずつ行かせてもらうことが叶った。
 両施設の所長は女子が教育を受けたり、技術を習得したりする事に熱心で、私を温かく迎えてくれた。特に軽犯罪に関わった女子の施設は日本大使館が支援している「草の根無償資金協力」を得て、工業用の電動ミシンをたくさん持っていた。私が感心したのは、その難しいミシンを長年大切にメインテナンスして、使いこなしていた事だ。私のトレーニングには監視の先生1人と施設の中で縫製技術の高い6人が選ばれて参加し、昼食の時間も惜しんで学んでくれた。私が5分遅れても心配して、校門に私の姿を見るなり、素足で飛び出してきて、私の材料でいっぱい膨らんだリュックをかついで教室に迎えてくれた。子ども達との深い絆ができた。秘守義務の為、今後二度と会うことはないが、彼女たちの幸せを願ってやまない。

【人の温かみ】
 失敗あり、成功あり、私のJICAとのつながりは、私の人生を豊かで国境を越えたダイナミックなものにしてくれた。それが、常に周りの人々の温かい支援によって成り立ってきたことをつくづく感じている。
 ミャンマーから帰国してすぐに、イギリス政府が英語教師を派遣するブリティッシュカウンシルでの仕事に夫が応募し、再度ミャンマーに戻ることになった。毎日熱心にブリティッシュカウンシルでの英語の授業の準備に追われる夫を横目に、私は3回のボランティア活動を終えて、やっと自分の時間を持てるようになり、今更ながらにまたヤンゴン大学に通ってミャンマー語を一からやり直している。
 ミャンマーの教育熱は私が見る限りでは高い。貧困層の親も子供を大学に行かせるために身を粉にして働く。また、子供もそういった親の恩恵を感じて必死で勉強をし、家事を手伝ったり兄弟の面倒を見たりして助け合う。教育を受けることで社会的に強い立場になり、苦しい生活から抜け出せる希望が今のミャンマーにはあると思う。 
 これまでの自分のボランティア人生を振り返り、たくさんの人々に関わり、人々の温かい心に助けられて、自分の能力以上のことを成し遂げられた気がする。特に、常に理解をもって支えてくれた夫と、「お母さんを誇りに思う。」と励ましてくれた子ども達に感謝の意を示したい。JICAに関わって良かったと思う。

【詳細】
JICAホームページ>JICA四国>「人」明日へのストーリー>人の温かみ(前編)
https://www.jica.go.jp/shikoku/story/0125_1.html
JICAホームページ>JICA四国>「人」明日へのストーリー>人の温かみ(後編)
https://www.jica.go.jp/shikoku/story/0125_2.html


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http://www.egn.or.jp/ngo/ngo.html

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